土田ヒロミ × 伊藤俊治(美術史家・東京藝術大学名誉教授)さんの対談を聞いてきました。伊藤俊治さんは美術批評の著書が多く、特に写真関係の本は読みやすく分かりやすいです。大学時代に愛読していた著者の生批評を直接聞けるとは、本当に胸が熱くなります。私がメモにできたことだけ書きおこし、構成しました。断片的でもあるのでご容赦を。記録です。

伊藤さん
土田さんは、高度経済成長期から86歳になられた現在に至るまで、精力的に撮影を続けていらっしゃる写真家です。変貌していく日本と日本人を捉えたその作品群には、明確なコンセプトが存在し、社会の深層や文化の構造を鮮やかに浮かび上がらせています。
たとえば代表作の『俗神』では、崩壊しつつある農村共同体の中で性と俗が溶け合う様子を定着させています。人間の身振りや仕草を通して、世間にまみれた神様、いわば「俗神」として表現しています。
『自閉空間』では、ご自身の若い頃の精神的な葛藤や過去を深いところまで掘り下げて写し出しています。その一方で、『砂を数える』という作品では、群衆としての人間集団の動きを際立たせており、現代の土着に生きる人々をどこかクールに検証しているようにも見えます。また、1970年のヒロシマを捉えた作品群では、私的な感情をあえて排除し、記憶のレイヤー(層)を構築されています。
土田さんは写真を通じて、新たなモニュメントを構築する領域に達しています。時間や人間の記憶に関わるものを、まるで標本のように透明感をもって、そして長期間にわたって撮影し続けている――それらはまさに「沈黙の記念碑」のようです。

土田さん
ベルリンの壁を撮影に行ったのですが、私が訪れた時にはすでに壁は壊された後でした。そのため、その「跡地」を撮影することにどのような意味があるのかを模索することになりました。ヒロシマとの対比でもありますが、文化的・政治的象徴であったドイツ、壁が国家を二分していたわけです。
イスラエルでは2000年代に自爆テロが頻繁に起きていました。そこで、スーパーやバス停といった自爆テロの現場となった「跡地」を撮ろうと考えたのです。日常的な場所でありながら、一瞬にして戦場の最前線と化してしまう。しかし日常であるがゆえに、事件の後はすぐに元の状態へと戻っていきます。街を訪れた際、砂漠の中へとどこまでも伸びていく壁を目にして「これは永遠に続いていくのではないか」と感じ、それをカメラに収めようと決めました。
20世紀の人々と広島、そして敗戦国としてのベルリン。壁がなくなった後の場所は、本当になんでもない空間へと変わってしまいました。東西の境目だった場所を撮影したものの、どちらが西でどちらが東だったのかも分からないほど、なんでもない風景になっていたのです。そのため、写真の上に「WEST(西)」「EAST(東)」という文字を刻みました。文字に頼るということに敗北感のような気持ちもありましたが(笑)、そうしなければ、かつてそこが境界線であったことすら分からないほど、何でもない場所になってしまっていたからです。
ドイツという国は、歴史を検証するためにベルリンの壁を残すなど、記録として後世に留めようとします。一方で日本は「水に流す」文化であり、良いことも悪いこともすべて流してしまう傾向があります。
原爆によって破壊されたものと、破壊されなかったもの。ヒロシマにはその双方が存在していました。松の木などが保存されてはいましたが、体系的なものではありませんでした。私が被爆樹を撮影し始めて、ようやく広島市が本格的な調査に乗り出したという経緯があります。

伊藤さん
土田さんの作品に触れると、自分たちの記憶がぐっと引きずり出されるような感覚を覚えます。「ベルリンは壁、広島は被爆樹」と言われると、私たちの内側から記憶が蘇ってくるのです。ヒロシマ、ベルリン、エルサレムへと目を向けることで、国家とは何か、暴力や戦争とは何か、そして人間とは何かという深い思いや、精神が漂流していく様が示されているように感じます。

しかし自画像の作品についてですが、ご自身に降りかかる時間の層や、老いていくプロセスをグリッド状に構成していく作品になっていますね。
土田さん
40代かな、白髪が出てきたことがきっかけでした。「自分も老化していくのだ」と気づきました。これは100歳まで撮影し続けなければ面白くないなと思ったんです(笑)。今回展示している作品の中には、AIを使って100歳になった自分をイメージした写真も掲載しました。

伊藤さん
写真はついに、未来までも写せる時代になったのですね。写真というものの概念そのものが判別しにくくなるような、新たな表現材料になってきていると感じます。
ところで、土田さんの撮影の原動力はどこから来ているのだろうと考えた時、「双子であること」が関係しているのではないかと思ったのです。目の前に自分と同じ顔が存在するという現実、そして「写実」という複製技術――それこそが写真の本質と重なるのではないでしょうか。
土田さん
言われてみれば、私にはなぜか孤独感というものがありません。それも双子だからなのでしょうか。ちなみに兄は「善太郎」、私は「ヒロミ」という名前なのですが、父の名前のセンスには少々困ったものだなと思っていました(笑)。

土田さん
写真には「連なる沈黙」が存在します。鑑賞者はそれを見て「これは何だろう」と思い起こし、自分自身に問いかけることになる。それこそが「鑑賞する」ということです。
私にとってカメラとは、「外在化した脳」であり「単純化された脳」であると思っています。その機能を最大限に活かしたいのです。写真の持つ記録性をとおして世界を再発見し、自分自身をもう一度見つめ直し、そして他者を見ていく。
今後は、フクシマの姿をきっちりと撮影したいと考えています。日本人が自然とどのように関わり、何を求めてきたのかを、フクシマを通して表現していきたいです。
