「うつしよの庭/土屋公雄展」講演&トーク記録

養浩館庭園(福井県福井市)の開園30周年を記念する『うつしよの庭/土屋公雄展』の関連イベントを聴講してきました。福永治(京都国立近代美術館 館長)、土屋公雄(彫刻家)、石堂裕昭(福井市美術館 館長)三氏による講演&トークです。

簡単ではありますがその時の様子をまとめました。誰に頼まれたわけでもなく備忘録として。全文起こしではなく個人的な要約ですので、あらかじめご了承ください。
(文中、各氏の表記は敬称略)

土屋公雄(以下、土屋
私は1955年、昭和30年生まれである。高度経済成長期後、ベビーブーム後の育ちで、(道路や建物などができ)日常の生活がどんどん変わっていく日々であった。

「自分はこれから何をしていこう」という明快な答えがなかった時代だった。私は学生時代から心の奥のアイデンティティのようなものは何か、いつも探し物をしていて、微熱というか喪失感というかを感じていた20代前半であった。その頃に夏目漱石が記した「人間として哀しいのは所在のない人間である」という一節に触れ、そこから「所在」ということを意識し始めた。

-伐採された枝で作品を作る「自然木」シリーズ、流木などいくつかのシリーズを年代順にスライドで紹介。

土屋
自然に流されてできた流木を私は使わない。人間に一度使われたけど、捨てられ流され海にうちあげられた物を選んで素材にした。原美術館(東京都品川区 ※現在閉館)で発表した『記憶の部屋』という作品では、取り壊された住宅の廃材を使って建物の中に廃材を敷き詰めた。これは建物の外側が内側に入ってくることを意識した作品である。1990年代は灰シリーズを制作。家を一軒燃やした後に残る〈灰〉を素材にした。

「サイトスペシフィックシリーズ」というものもある。サイトスペシフィックとは、その場所でしか成立しない作品のことである。山口県では解体した橋脚をそのまま作品『底流』にした(宇部市野外彫刻美術館)。フランスではフランスの家を解体して作った半円の作品『永劫』を手がけた(1990年)。

ヨーロッパは日本と違い、家は石でできている。海外で発表すると必ず現地の人から「どうしてこういう形なの?」「なぜこのサイズなの?」と聞かれる。『永劫』では半円を土の上に作った。半円が見えると人は円を想像する。地上に出ている部分と沈んでいる部分、「廃材と土地がどう絡むのか」を考えて制作した。

金津創作の森美術館(福井県あわら市)にある『隠されたピラミッド』、シドニー五輪の時にオーストラリアで制作した作品『記憶とは終わりなき創造である』、和泉シティプラザ(大阪府和泉市)の作品『時の地層』、愛知県立芸術大学の学生と作った瀬戸内海の女木島(香川県高松市)の作品などをスライドで紹介。

(作品はこちらで一覧できます。土屋公雄オフィシャルサイト WORKS実績

土屋
建築に関わる仕事も多い。単に彫刻をやっているのではなく建築で社会が抱える問題を解決できないかと思っている 40年間こんなことをしていた。

福永治 京都国立近代美術館館長(以下、福永)
私も1955年生まれで土屋さんと同世代である。だから土屋さんが学生の時に思われていたことはよく分かる。土屋さんのことは自身の著書月を追いかけてという本に詳しい。

ー中略ー

高度成長期、テレビが普及し、東京オリンピックがあり、大阪万博があった。車やテレビ電話があった漫画の空想の世界が現実になってきた。

社会で作る意味というものがある。作家は思想をもって作らなくてはいけないという時代になってきた。つまり芸術が社会の中でどのような意味を持つのか。作家の思想があるからこそ作る。このようなことを意識する時代になってきて、土屋さんはその先頭を進む作家であった。

著書を読むと倉俣史朗との出会いも大きかったと聞く。建築を学び建築から出発し、建築思想を持って彫刻家になった土屋さん。彼の建築思想がどのように作品として成り立ち、今につながっていくのか考えた。私は土屋さんは「空間の捉え方」を学んだのではないか、と思う。

作品との距離の取り方にしても、空間の中に在るということをどう意識するか、この場所に何をどんなサイズで作るのか、この方法は建築家が行うプロセスである。それが土屋作品に出ている。

作品の仕上げに対し、細部まで配慮がある、それが土屋公雄の仕事である。養浩館の作品はとても美しい。

私たちが若い頃は、上の世代が築き上げた新しいものを掴まなければならなかった。1980年代は、トニー・クラッグリチャード・ディーコンアニッシュ・カプーアアントニー・ゴームリーらが登場した時代である。彼らの共通点は、皆違う仕事をしているということ(最初から作家ではない)。材料や造形的な面白さだけではない、それで終わらない、作るものへの想いがある作品が登場してきた。1980年代のイギリス美術については次の展覧会が詳しい。

土屋さんは1982年にドクメンタを観に行き、ヨーゼフ・ボイスに出会った。ボイスは「アートは社会に対して何ができるか」を問う作家であった。その影響はたぶんにあるだろう。1983年に戻った土屋さんは精力的に活動をしている。

そして朝倉文夫賞 本郷新記念札幌彫刻賞、中原悌二郎賞、日本の三大彫刻賞をわずか帰国後5~6年で受賞している。三大大賞をすべて受賞しているのは土屋さんぐらい。それはすごいことだ。私は土屋さんの作品を最初に見たのは山口県宇部市のものだった。造形的な作品が多い中、彫刻に初めて思想を持ち込んだ人だと思った。

ーフィンランド・ヘルシンキでの作品『揺れ動く境界』、丸ビルでの作品『Mの記憶』、福井県立美術館『未現像の記憶』で発表した時計の作品、箱根彫刻の森の野外彫刻の作品『記憶の場所’99』などをスライドで紹介。

(作品はこちらで一覧できます。土屋公雄オフィシャルサイト WORKS実績 または 武蔵野美術大学 建築学科 土屋スタジオ)

福永
私は土屋さんが養浩館庭園にどのように作品を寄せていくのか興味があった。「土屋目線」がどう生かされているのか。来てよかったと思う、よい目撃をさせてもらったと感じている。

石堂裕昭 福井市美術館館長(以下、石堂)
私が学生だった頃、土屋さんはもうすでに世界で活躍されている作家だった。私は彫刻世界の動きを目の当たりに見ていたと思う。

そもそもこの展覧会のきっかけは、2020年に私が古川美術館・分館 爲三郎記念館(名古屋市)を見に行ったのが始まりである。同じように数寄屋造りと庭園のある美術館だ。見終わった後、土屋さんから電話がかかってきた。彼から「養浩館庭園で作品発表をしたい」という相談を受けた時、私自身の中に単純に「見たい」という純粋な想いが芽生えた。

土屋さんの昔の作品を知る人は、今回の展示を見て「スケール感がないのでは」と思われるだろうが、土屋さんが作っていることとやってることや考え方は変わらない。本展でも十分にその想いは凝縮されていると思う。

福永 
今回の養浩館庭園の展示では、障子を開けたり閉めたりするのも大変だったのではないか(障子の取り外しはなかなかできることではない)。

海外で作品制作をすると「おまえはなぜこれを作るのか」と説明を求められる。そのたびに土屋さんは答えている、彼は説明できる人なのだ。しかし相当無理もされたのではないか。私はどんなアイデアができてどう出るのか、期待を持つ。土屋さんは今回出している苔を2年かけて育てたという。それが土屋さんという人なのだ。

土屋
ギャラリーは何を持ち込んでも恰好がつく。しかし今回の養浩館庭園のように、ある空間の中にもうひとつのイメージ(作品)を持ち込むのは大変なことなのだ。

養浩館庭園はすでに数寄屋造りとして出来上がっている建物である。その出来上がった空間に新しさを入れるのは難しい。それで私はどのように考えて制作するかというと、まず「場の風景」を思い浮かべる。場の風景を思い浮かべ、空間の広がりを感じ、その風景が世界にどうつながっていくのか。「世界とつながる」という私のメッセージをどういう形にして世界に発信できるか、ということだ。

気持ちの中に風景があって、風景から空間の広がりになって、空間の広がりをどこまで世界に飛ばせるか。
場のメッセージとは何か、どのように言語化すると伝わるか、考えている。
場のメッセージとは今の時代に届くメッセージになるかどうかということ。自分で咀嚼して自分なりに出す。ただメッセージは直接的ではつまらない。私なりに咀嚼して出してきたやり方が、養浩館庭園でどう作られるのか。

養浩館庭園には自然の中に隠されたものがある。西洋建築にないものがある庭園だ。草庵から茶室になり数寄屋になるという歴史的背景があるので、「では、養浩館はどんな場であるか」と考え、風景を自分のものにする。自然との交流の場であること、数寄屋造にある「もの」の場とは何かということを意識して作る。

話は変わるが、昨日私は(福井県あわら市の)あわら温泉へ行った。風呂に入ると目の前に田んぼが見える。あわら温泉は田んぼを見せる温泉だったし、秋になれば稲穂を見せるだろう。福井の生活と自然が寄り添っている証拠だ。この自然が豊かなのだ。これが幸福度ではないか。すばらしい風景だ。田んぼがこの土地の原風景なのだと思う。私は福井の地で白山、文殊山、足羽山を見て育ってきた。それが原風景か。

私は「オリジナルとは何か」と苦しんだ時期がある。何が自分で何が自分でないのか分からなかった時期がある。イギリスでは「クリエイティブな人はここが大事なんだよ」と教えてもらった。

石堂 
そのあたりを詳しく話してほしい。

土屋
イギリスに留学していた頃の話だ。作品を1点ずつ、毎日作る課題が出た。毎日別の作品を作るのが条件で、一つの作品を展開(応用)してはならないルールだった。作品といっても、それは文章でも音楽でも絵でもいい。「楽勝!」と思っていたがだんだんつらくなる。どうにかこうにかひねり出すと、先生がそれを並べろと言う。

自分から「出したもの」を並べ、俯瞰して見る。すると共通点が見えてくる。つまり、それが「あなただ」と気づかされる。あなたには共通点がこんなにある、色や線の使い方、それがあなたよ、と。先生は教えるのではない。自分の中に発見させていく。こんな課題は日本では出ない。今はこのやり方を大学生に教えている。

我々アーティストは人と同じものを見ているが、角度を変えて見ているのだ。違う視点で物事を見ている。ただ、一方向の見方ではそれで終わってしまう。見方にはトレーニングが必要なのだ。それが創造の始まりかなと思っている。

石堂 
創造するのは苦しいこと。そして創造にも訓練が大事である。作家だけではない、鑑賞する側にも訓練が大事だと思う。見る訓練をしないと美術が見えてこない。難しいものではないと思うが、難しく考えてしまう。

土屋
見慣れるのは大事だ。「現代美術」は見慣れると面白くなってくる。しかし福井の人に見慣れてないと思う。見続けると面白くなるもの。福井には見続けるチャンスがありますか?

福永
「美しい」と感じるまでには訓練が必要。学芸員はそのちょっとのヒントを差し上げる。そのさじ加減が難しい。

土屋
長澤英俊という彫刻家がいて、イタリアで活動をしていた。彼としばらく一緒になることがありこんな話を聞いた。

北イタリアの市役所には、ある看板(宣言のようなもの)が掲げてある。
その看板に書かれているのは
「地獄がなんであるか、分からなければアーティストに聞け。もしあなたの近くにアーティストがいなければ、それが地獄である」

アーティストがいない地域は地獄ですよ、と言われている。イタリアの市役所に掲げられているのだ。福井は地獄ですか?

アートには力があると信じてる。「美術と叫べば戦争は無くなるのか」と言われるが、戦争はなくなると思う。

もう一つ紹介したい。ワシントンポストに掲載された、アインシュタインとフロイトの往復書簡のエピソードだ。「人間はいつになったら戦争というくびきから解放されるのか」というテーマで話し合うものだった。

アインシュタインからの質問に精神科医フロイトは「愛に近づくために理性が必要である。理性には芸術文化を含む」と答えていた。これは今にもつながっていて、ロシアとウクライナの戦争についても、プーチンの中に愛と理性があれば人のモノを奪おうとは思わないだろう。芸術の中に差別はない。敬愛があり、リスペクトがある。そして新しい時代を作ってきたのだ。


感想 三氏のトークを聞いて

心に残ったのは、「場の風景を思い浮かべ、空間の広がりを感じ、その風景が世界にどうつながっていくのか。
そして「世界とつながる」という私のメッセージをどういう形にして世界に発信できるか
」という発言です。

作家が全身全霊をかけて制作しているのであれば、鑑賞者である私は、もっともっと作家の世界観に足を踏み入れて、奥に入り、時にこじあけて、受け止めなければと強く思いました。こじあけるのは作家の内側かもしれませんし、私自身の心のうちかもしれません。そして常に世界を意識していきたい。ここでの「世界」が何を指すのか、それも深く潜らないと分からないでしょう。

創り続ける訓練や見続ける訓練が美意識を育てるということも重要な発言でした。茶道や華道も続けるから分かる世界があり、詩や小説も読む力あるから面白いと分かる。スポーツも同じです。問われているのは、芯、核。続ける覚悟や理由ももっと前のめりに潜らないと、それを言語化や表現できるようになりたい(まだ到達は無理)。

私が学生の時、土屋さんはすでに世界で活躍されている作家でアート関連の書籍やニュースには必ず登場する方でした。私は先にスケールの大きな作品を目にして、ご本人が福井市出身だと知ったのは後になってからです。

『A Primal Spirit(10人の現代彫刻作家)』(1990年)という展覧会があり、たまたま図録を手にしました。その作家からも迫力が図録から伝わってきて、現地で見られなかったことを心から悔しいと思いました。同時代に生きていることや生きている作家の生の作品を同じ空間で味わえる現代美術の面白さを知るきっかけでもありました。

最後に聴講した方からの感想で、「お殿様が見ていたときと同じ自然光で作品を見られてよかった。人間の生き方を教えてくれる作品だった。作品は触れたくなるものだったが、触れることに関してどう思われているか」という問いに対し、土屋さんは「彫刻が持つ実存のある世界を知ってほしい。今の日本の展覧会は安上がりにできている」と一言。この返答に聴講者一同納得でした。最近、表面的で、内省的で、感覚的になんかよさげ、という雰囲気の作家や展覧会に辟易し、似たような作家しか出てこない芸術祭もひととおり巡った私が、福井に住んでいたからこそお手伝いが出来た仕事に感謝です。

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この記事を書いた人

SAITO Riko(齊藤理子)

幼い頃から絵が好き、漫画好き、デザイン好き。描く以外の選択肢で美術に携わる道を模索し、企画立案・運営・批評の世界があることを知る。現代美術に興味を持ち、同時代を生きる作家との交流を図る。といっても現代に限らず古典、遺跡、建築など広く浅くかじってしまう美術ヲタク。気になる展覧会や作家がいれば国内外問わずに出かけてしまう。

I have liked drawing since I was young, manga and design. I tried to find a way to be involved in art other than painting, and found that there were ways to be involved in planning, management and criticism. I am interested in modern art and try to interact with contemporary artists. I am an art otaku, however, it is not limited to modern art. I appreciate widely and shallowly in classical literature, remains, and architecture. If there is an exhibition or an artist that interests me, I go anywhere in and outside of Japan.