「この壁画が物語るように、明るく、自由で、みんな仲良く、励まし助け合って、力いっぱい、楽しく生きていこう」-靉嘔『平和の楽園』

一度見たら忘れられない壁画がありました。「なぜここにあの人の作品が、しかも壁画!?」と思い調べてみると、学校の創立と理念に関わり、とても壮大な意義を持つ壁画だったのです。壁画は45年を経た今もその鮮やかさを失わず、学校の理念をビジュアル化したものとして生き続けていました。そこで、福井大学教育学部附属特別支援学校(設置当時は附属養護学校)の関係者の方にお話を伺いました。

平和の楽園 1975年設置 撮影/高橋良典

壁画の原画は、靉嘔(あいおう)の代表作『ナッシュビル・スカイライン』と題された10枚組の版画の中から2点を選んで1枚にしたものです。靉嘔は、虹のアーティストと呼ばれる現代美術作家です。この色使いを見て、どこかでその版画作品を目にしたことがあることでしょう。福井県内にも多くのコレクターがいます。その靉嘔の版画の摺師(すりし)が助田憲亮さん(福井市在住)です。壁画制作にあたり、助田さんは靉嘔から注文を受け、実際に版画で下絵を作りました。

-なぜ靉嘔が壁画の題材を『ナッシュビル・スカイライン』から選んだのか、お聞かせいただけますか?

『ナッシュビル・スカイライン』は、靉嘔が1970(昭和45)年に日本橋三越での「アメリカ・ナイーブ絵画展」に触発されて作った版画の原画です。「アメリカ・ナイーブ絵画展」は、アメリカの名もない画家たちが素朴ながらも魅力的な絵を描いていた時代の作品展でした。靉嘔は同年、この展覧会をはじめとするナイーブアートについて美術雑誌『みずゑ』に『なにはともあれ、シリアスはどぶに捨てよう』というタイトルで自身の寄稿を掲載するほどでした。

ちょうどその頃に、福井大学教育学部附属特別支援学校の壁画のお話を木水育男先生(当時の副校長)の招きでいただいたのです。木水先生は子どもが自由に心のままに描く絵の取り組みをされていまし、「子どもが描くように絵を描こう」と呼び掛けていました。そのことに靉嘔は共感したこと、彼のナイーブアートへのあこがれも一致したのでしょう。 『ナッシュビル・スカイライン』 から選ぶのが最適だということでした。

助田さんの資料より。版画のモチーフとした絵
壁画に描かれた動物たち。長年の謎「あれはあの動物だったのか!」と明かされました

-壁画が設置された経緯はご存じですか?

説明すると長い長い話なので、端的にいうと副校長として赴任した木水先生が「自分の理想とする学校を造ろう」「学校は芸術的でなければならない」という発想から動いたお話でした。費用も制作もなかなか理解を得られるものではなかったのですが、さまざまな方が関わり1975(昭和50)年に完成しました。

-タイルで再現する、実装するというのは最初からの計画でしたか?

当時はそれ以外の方法が見つからなかったですね。原画ができた後、タイルで実装することになりましたが、最初は木水先生の友人で瀬戸焼をされていた平子芳徳さんに相談をしました。靉嘔、木水先生、そして僕で現地へ向かい色のサンプルを作ってもらいました。ですが、靉嘔が思う虹の紫色をタイルで再現するのが難しかった。赤色も難しかったな。焼くときの温度や気温、土にも左右されるのか、あんまりうまくいかなくて。

別のところでも考えようと、東京にある近代モザイク株式会社へ相談しました。すると、ここでは色を再現するのではなく、既成のタイルをうまく組み合わせて遠くから見ると一色に見えるように、というアイデアを出してくれました。1枚1枚色が少しずつ異なるタイルを組み合わせて、遠くからなら青色に見える、目の錯覚を利用したような制作です。現実的なやり方となり、近代モザイクへ依頼することになりました。

確かに1枚1枚タイルを見ると、微妙な色の違いが分かります  撮影/高橋良典

余談ですが、瀬戸でタイルのことでうにゃうにゃやっているときに、靉嘔が木水先生に「日本素朴派を作ったらどうだ」と声をかけたんです。靉嘔が「版画を100部刷ってその半分をやるから資金にしろ」と。木水先生が作られた日本素朴派の活動のきっかけは靉嘔だったんですよ。

-45年を経た今もとても鮮やかです。タイルの剥がれはないようですよ。

陽に焼けてしまったから当時のそのままというわけではないですが確かにきれいですね。タイルの剥がれがないのはね、下地がしっかりしているからです。カメラマンの水谷内健次さんが当時から頑張ってくれていて、彼はもともと左官の腕も持っていたから「下地をしっかりしないといけない」とかなり吟味してがっつり作ったんです。

完成後、靉嘔が見に来てくれました。確か1975年の7月かな。子どもたちが歓迎の歌を歌ってくれたり、催しものを開いてくれたり、とても感動したと本人も喜んでいましたね。

-摺師として助田さんは完成をどう思われましたか?

大きさに圧倒されたよね。校門に入ったら正面に見える大きな絵だもの。学校の建物に使われるなんて思ってもみなかった。福井大学教育学部附属特別支援学校では、この絵をもとに教育が培われたと聞きました。当時としては驚くほど本格的な壁画で、学校で所有するなんて今でもやろうとすると難しいことではないでしょうか。

私としては、関わった作品が壁画として出来上がり誇らしく思いました。正直、靉嘔の色の再現については満足はしなかったけれど(苦笑)、45年前の当時の技術で最善を尽くした壁画だと思います。

助田さんのアトリエにて

壁画は建もののアクセサリーではありません。壁画はアーツです。この壁画の迫力はなんでしょう。鮮やかな色彩でしょうか。大きいからでしょうか。ぼくはそれよりまして、それらを貫く強烈な画家の創造的精神こそ大きな要因だとおもいます。創造的精神は、いつも人類をうらぎらないで、励ましつづけてきました。現代の人間は病んでいます。それを救うには、ひかえめにいって芸術しかないと思うのです。

写真集「小さな手と大きな手」助田憲亮さんのことば

虹は多様性の尊重。いろんなものことがあるほうがいい、そのシンボルです

壁画と学校とともに邁進したという先生のお話も伺いました。天方和也先生は1983年(昭和58年)に赴任し、以降37年間、福井大学教育学部附属特別支援学校で教鞭を執られていた先生です。

-壁画がある学校をどのように感じていらっしゃいましたか?

インパクトがありますよね。一言でいうと壁画は学校の理念を可視化した絵です。教育の方向付けを絵で見せてくれている。福井大学教育学部附属特別支援学校の初代副校長として尽力し、壁画の設置に力を注いだ木水先生の想いが詰まっています。作家の絵を校舎内ではなく、外にドン!とおいておこうという考え方も大胆です。

-タイルの枚数も数えたとか…?

1メートル四方の中に、1600~2000枚のタイルがありました。壁画の大きさは横が約13メートル、縦が約6メートル、面積は約78平方メートルなので、壁画全体では12万4800枚~15万6000枚のタイルが使われていることになります。いったいどれだけの手間と時間がかかったことでしょう。そのように子どもたちにも説明しました。

-靉嘔さんの思い出もお持ちですね

2010(平成22)年の大野城での展覧会のときは、 靉嘔さんが学校に立ち寄ってくださり、壁画の前で子どもたちと記念撮影をしてくれました。

-先生が壁画を前に感じられていることを教えてください

虹のアーティストと呼ばれる靉嘔さんの作品は象徴的です。虹は多様性の尊重、言い換えるといろいろな人、もの、ことがあるほうが良い、というシンボルでもあります。「この壁画が物語るように、明るく、自由で、みんな仲良く、励まし合って、力いっぱい、楽しく生きていこう」という本校が創立したときからの先生たちの願いが、『平和の楽園』には込められています。

天方先生の思い出の一枚。子どもたちが(通常の授業時間のみならず、昼休みになると、自ら道具を出してきて作り始めるほど)生き生きと取り組んだ「ログハウス作り」の様子。左端が天方先生です

天方先生は定年退職となり、現場を離れた今も壁画のある学校については並々ならぬ誇りを持ち、理念に沿った教育と研究を続けています。壁画の世界にあるように「学校は自由で楽しい雰囲気そのものです。誰もが活力を得て生きていこうという気持ちになりますから」と通われた日々を話してくださいました。

私たちは、この壁画を単なる本校教育の理想を象徴するものとしてだけでなく、この壁画を中心とした本校教育のこの場を「平和の楽園」として、さらにこれから何時までも、この子らの幸せのために、研究と実践に臨む基地としたい、と考えているのです。

壁画のある学校 まえがきより
猫が小鳥を加えている、なぜそれが平和の楽園なのかは哲学的な問いです 
撮影/高橋良典
何がいて、何が隠れているか分かりますか? 撮影/高橋良典

ウキウキ、ニコニコ、前向きになれる学校生活に!

では、現在通われている先生と子どもたちはどのような様子なのでしょうか。教頭先生と校長先生にお話を伺いました。

水上真一教頭先生は「実は私は今年赴任してきたんです。この壁画を今まで知りませんでしたが、初めて来たときにあまりにも鮮やかで美しく驚きました。見ているだけで気持ちがウキウキ、前向きに考えられるではないですか」とニコニコと答えてくださいました。

さて、壁画を撮影をしようとすると、とてもおしゃれな青色の車が壁画の前に停まっていました。なんと水上先生の自家用車ですって。「この壁画の前に車を止めるなら、 停めても恥ずかしくない、 素敵な青色にしようと塗り替えたんです。壁画にぴったりな車を目指してカスタムしました」とライトまで青色に。福井大学教育学部附属特別支援学校近くを走る青い車を見かけたらもしかして、と想像してください。

かっこよすぎ、マッチしすぎ!

吉田弥恵子校長先生も撮影時に資料を手にウキウキと答えてくれました。
「毎朝、子どもたちはこの壁画の前を通って校舎に入るんです。運動会では、描かれている動物をモチーフにして入場門を作ったりしました。防水訓練では消防隊が壁画に水をかけてくれて洗ってくれたりも(笑)。それぞれがこの絵に親しんでいます」。2021年に創立50周年を迎え、コロナ禍の中でしたがひそやかにお祝いもしたそうです。

資料を手に話し合う先生たち。雨の合間を縫って撮影してくれた高橋カメラマン

壁画が生きているから学校が生きているのでしょうか。学校が生きているから、壁画が生きているのでしょうか。

写真集「小さな手と大きな手」助田憲亮さんのことば

靉嘔「平和の楽園」
サイズ 5メートル×11メートル
硬質磁器色タイル モザイク仕上げ
総工費 300万円(1975年当時)
完成年月 1975(昭和50)年3月

もぐもぐ牛と、ぽやんとしているライオンさん。色の組み合わせがいい! 撮影/高橋良典

作家プロフィール

靉嘔(あいおう)
1931年 茨城県生まれ。東京教育大学教育学部芸術学科卒業。1962年頃より「フルクサス」グループに参加。本名飯島孝雄。
1966年 ヴェニス・ビエンナーレ日本代表
1971年 サンパウロ・ビエンナーレ日本代表(ブラジル銀行賞受賞)
1977年 「レインボー・エンヴァイラメントNo.11 レインボー・ランドリー」(世界貿易センタービル、ニューヨーク)
1987年 「25m 虹のイヴェント」(永平寺、福井)「300m レインボー・エッフェルタワー・プロジェクト」(エッフェル塔、パリ)
2006年 「虹のかなたに靉嘔AY-O回顧1950-2006」(福井県立美術館、宮崎県立美術館)
2010年 靉嘔展「虹男(こうなん)・虹女(こうじょ)が大野城に現れた」(越前大野城)
2012年 「靉嘔ふたたび虹のかなたに」(東京都現代美術館)

靉嘔は木水育男さん、大野市「小コレクター運動」と関係が深くたびたび来福し、交流を深めました。
靉嘔 の版画は、COCONOアートプレイス(大野市)で鑑賞できます。

参考資料
木水育男(奥右衛門)と児童画-心のかよいと子どもの絵-(2008年、朝倉俊輔著)
写真集『小さな手と大きな手』(1979年、虹の会発行)
壁画のある学校 - 重い子の12か年教育-(1979年(昭和54年)、福井大学教育学部附属養護学校発行)
18~19世紀のアメリカ・ナイーブ絵画展-ガービッシュ夫妻コレクション-(1970年、日本橋三越)

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この記事を書いた人

SAITO Riko(齊藤理子)

幼い頃から絵が好き、漫画好き、デザイン好き。描く以外の選択肢で美術に携わる道を模索し、企画立案・運営・批評の世界があることを知る。現代美術に興味を持ち、同時代を生きる作家との交流を図る。といっても現代に限らず古典、遺跡、建築など広く浅くかじってしまう美術ヲタク。気になる展覧会や作家がいれば国内外問わずに出かけてしまう。

I have liked drawing since I was young, manga and design. I tried to find a way to be involved in art other than painting, and found that there were ways to be involved in planning, management and criticism. I am interested in modern art and try to interact with contemporary artists. I am an art otaku, however, it is not limited to modern art. I appreciate widely and shallowly in classical literature, remains, and architecture. If there is an exhibition or an artist that interests me, I go anywhere in and outside of Japan.